人にやさしく。差別と偏見はそこにある。

 

 

世界ランク1位の王者ジョコビッチ選手を破り、日本人として初めてグランドスラムの決勝の場に立った「錦織圭」選手。チリッチ選手にストレートで敗れ、念願のメジャー初制覇はならなかったが、7回目の出場となったUSオープンの場で、このような快挙を成し遂げたことは、日本のテニス史上に語り継がれる記録であり、世界中の人々の記憶に残っていくことだろう。注目度が高くなる次回からの試合は、かなり苦戦も強いられることでしょうが、それを乗り越えるハードワークをさらに続けていくことでしょう。

 


元世界1位フェデラーが語る「日本から世界的なテニス選手がでない理由」に感動 – grape -「心」に響く動画メディア

 

日本の記者がロジャー・フェデラーにインタビューしたときに「なぜ日本のテニス界には世界的な選手が出てこないのか」と聞いたらしいんです。するとフェデラーは「何を言っているんだ君は? 日本には国枝慎吾がいるじゃないか!」と言った。

加えて、フェデラーが日本の記者に自身のグランドスラム(4大大会すべてを1年間で制覇すること)について聞かれたときも、「グランドスラムは自分よりもクニエダの方が先だろう」

 

僕は、このエピソードに触れ、確かにそうだと思った。同じコートという場で凌ぎを削る同胞だからこそ言える言葉なのか、フェデラーを育んだスイスという国が持つ捉え方なのか、それとも、日本以外の地域する人々の考え方ないのか。僕にはよくわからない。しかし、僕自身が、確かにそうだ、と思ったことに、殊に日本人の相対的な無関心を感じずにはいられなかった。

 

 

障害者への差別、偏見は確かに存在する。全てとは言わないまでも健常者と障害者のは、日常生活を送る上でのギャップも存在する。同情なのか?優しさなのか?偽善なのか?難しい心の振れ幅は誰にでもあるだろう。ただ、大事なことは「人にやさしく」でいいと思っている。たとえば、日本テレビのチャリティ番組「24時間テレビ」や、白いつえの全盲女子生徒が蹴られる 埼玉 NHKニュース など、最近、障害者に関する関心事が多い。前者は、チャリティや寄付文化の乏しい日本において、高額で有名人のギャラを捻出し、それでいてチャリティを進行する番組意図へのクエスチョンや、お涙モノの番組企画への異議など、毎年番組終了後に、同じような非建設的な意見が飛び交っている。後者は、ニュースベースでは、全盲の女子を蹴るなんて許せないという論調と、SNSレベルでは、健常者ですら歩くのに困難な時間帯に歩く方が悪い、時間的な調整はできないのか?など、暴行に否があるとしながらも、障害者を取り巻く環境へのダメ出しが露見している。

 

オリンピックとパラリンピックの興業性の問題を見てもわかるように、ニュースの扱いによって、思考が偏る危険性はある。しかし、双方向性が担保された時代のメディアによって、賛否やタブーを打ち破るような意見が闊歩し始めたのも事実だ。今は吐き出すことに終始しているようにみえるが、もしかすると、ここに建設的なパラダイムを構築する可能性があるのかもしれない。

 

同じように扱って欲しいという希望と、物理的に同じように扱えない現実とジレンマ。しかし、フェデラーのエピソードにみる無関心からの脱却によって、同じ人間としてフォーカスを当てていくことは可能だし、注目させることでの意義も見い出せると思う。錦織選手の活躍に注目するのと同じように、国枝選手を賞賛するべきだし、そこから新しいドラマを人々は感じ取る必要性もある。

 

 

対等にみることと、対等に扱うことは同義ではないのかもしれない。暴行はNGだが、暴行に至るまでの背景は知る由もない。もし全盲の少女でなければ、一方に偏った報道にもなっていなかったはずだ。とはいえ、全盲の少女のキャラクタ次第では、彼女の振る舞いに僅かな狂いや誤解があった可能性もある。難儀な話題ではあるが、平等とは実に深いテーマ性を帯びており、何を軸に考察するかによって答えは実に多角的になりがちだと思う。

 

今日の風、なに色?―全盲で生まれたわが子が「天才少年ピアニスト」と呼ばれるまで

今日の風、なに色?―全盲で生まれたわが子が「天才少年ピアニスト」と呼ばれるまで

 

 

あたりまえのように、そして、ありのままにというキーワードは大事。障害者であろうと、マイノリティであろうと、なんであろうと、その人のドラマをその人なりに生きていくことが大前提だ。健常者だから完璧であるということはあり得ない。僕の心にだってポッカリ穴が空いている。自分の人生を自分の人生らしく生きている人を見ると羨んで仕方ない時もある。今、思いつく汎用的な答えとしては、「人にやさしく」でいいんだと思う。それを「おもいやり」と置き換えても構わない。

 

 

僕は心に乱れはあるものの、障害者手帳は持っていない。だから、その資格を保持する人々の生き方や、心の葛藤、生き様は存じ得ない。これを機にもっと主体的に声を拾っていこうと思う。セクシャルマイノリティーズとされるLGBT層に対してもそう思って接してきた。対面で声を聞く、触れ合う、友だちになる。コミュニケーションの大切さに全ては起因しているように思う。