言葉では補完できないセクシャリティの多様性。

簡単な伝達ツールであるがゆえに暴走するのが、言葉。

 

言葉(ことば)は、人間が話す・書くなどの行為をする事によって情報伝達手段となりうる、意味があるものの総称。心・気持ち・思い・考え等を表す手段の一つである。学術的分野では「言語」とも称されるが、日本語で「言葉」というと、言語の中で用いられる語を意味することも多い。via. 言葉 - Wikipedia

 

情報伝達手段であるからこそ、物事を簡単に捉えようと努めた賜物である。しかし、心や気持ち、思いや考えなどをそこに投影できるわけもない。「高い!」とだけ表現された時、物の高さなのか、値段のことなのか、それともモチベーションなどの気持ちの部分を指しているのか、漠然としている。対面コミュニケーションや、電話、チャットなど、ある程度リアルタイム性が確保される性質の伝達シーンがある場合、補足のやり取りで溝は埋められる。これがマスメディアに近しい、ワンウェイかつ大衆に一斉送信される類の情報となると、いわゆる補正は困難だ。

男と女という分別。生物学的な分別と社会的役割として期待されているロールとして存在する言葉。その役割は「男の子なんだから、泣くのをやめなさい!」「その振る舞いは女の子らしくない」などの表現そのままにすっかり文化として根付いている。2つに分別することで表現が容易であるとともに、対立構造を作りやすい。しかし、殊にセックス、ジェンダーは、2つの枠組みだけに収まるものではなく、そこからはみ出る人達が存在する。はみ出た人達はマイノリティと称される。男と女という言葉を用いながらも、それを適切に補完し、言葉自体を慎重に紡いでいかなければ、その人自身を明確に表現することはできない。いや、表現することでの誤解を避けるなら、それでも不十分だろう。

LGBTEFGHIJKLMNOPQRSTUVWXYZABCD・・・多様に、いや無限に存在するセックス、ジェンダーセクシャリティ。そこに性癖なんかを加えると果てしない。今は言葉をうまく紡ぎながら多様性のあり方について表現していくことが求められる時代だと思う。言葉として表現していかなければ、多様性を理解し得る社会にはなり得ないし、文化として成熟しない。多様性の数だけ、言葉が用意され理解促進が進むのか?それともセクシャリティ的な発想が多様性を認め、大きな多面的な概念に転化するのかわからない。しかし、今言えることは、セクシャリティではなく、パーソナリティと向き合うことが大事なんだと思う。だから、向き合おう。言葉の壁を越えて。

 

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