漂流している自分について考える。

僕は今「漂流」している。その言葉と概念が痛い。所詮知識の集合体に過ぎない断片的な過去に囚われながら漂っている感覚。その時に正しいと思う主張を繰り返すも、他人を巻きこんでは、傷付けているのではないかと思うことがある。そして、こうして書き綴る行為ですら、案外悩ましい過程の「点」であったりする。点はいつしか「引きたくなかった場所」へと線を伸ばす。そしてそれに気づいた時に愕然とするも、手遅れの場合もある。

 

 

生きることというよりも、生きるためのやりくりに疲れた感がある。死にたいというのも、僕には立派な欲望であるようにみえる。しかし、死というそれは満たせない。僕は死の先に何があるのか知らない。そして、それは誰も教えてくれない。欲を満たすことで、何を得られるのか(美徳の部分がフォーカスされる)を知っているからこそ、人は欲望を抱き、それを満たそうとする。「美味しいハンバーグが食べたい」「かわいいあの子と付き合いたい」「もう疲れたから、早く寝たい」など、食べたいものを食べるときの感覚、幸せな恋に落ちた先のぬくもり、目を閉じる時の開放感と逃避、僕らは欲望を満たすことの醍醐味を知っている。その意味で死は違う。先人達の教えにもない、Google先生に聞いても教えてはくれない。性欲を満たすのとは違う。

 

多様性、この地球では、約72億人が大地を踏みしめ、息づいている。人の数だけアイデンティティがあり、それだけのドラマが繰り広げられていることになる。しかし、コミュニケーションの始まりは、自分を取り巻く環境からであり、約72億人との接点など存在しない。生まれながらのエゴは、社会化の過程で、その文化に同調するマインドに変革していき、価値観として大別されている。噛み砕くなら国が異なれば、考え方も変わる、育った地域が異なれば、その生き方も変わるというわけだ。そのひとつには性別も含まれる。

 

多くの場合、他の人のドラマに共演する本数は限られている。友だち、親友、会社、学校、社会、地域、特定のコミュニティが、生きていく基調となる他者であり、主役であり、脇役となる。

 

LGBTと呼称されるセクシャルマイノリティーズ。社会の規範を形作るモデルの中においては、文字通りの少数派だ。マジョリティの規範価値には迎合しきれていない点が多く、ありのままに生きることを妨げている要素となっている。しかし、それが苦しいことなのか、ツライことなのか、僕にはわからない。結局、生きていく上での困難は誰にでも振りかかる。そして、困難はドラマの主人公の裁量で決められるものだ。人の痛みの本質など結局はわからない。つまり、生きていくという点においては誰もが同じ土俵に立っているということになる。

 

欲望に苛まれるのが人間なのであれば、大なり小なりのカテゴライズなどはどうでも良く、自分の幸せを追求する責任がある。しかし、自分の幸せをある程度充足できた人間が、他人の笑顔に貢献していくということは忘れてはいけない。心の余裕こそ、人にやさしくできる(人のことを思える)最大の動機付けなのではなかろうか。だからこそ、まずは自分自身のためにしっかり生きていこうね。

 

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